通信001 バリ島に日本からかかってきた電話 |
昨年12月26日。バリ島で風邪で寝込んでいた私のところに日本の父から電話がかかってきた。「おーい、生きてるか?」。
風邪だって言ったっけ?とぼーっとした頭で考えつつ「うん。なんとか生きてるよ」。「ひどい被害らしいな、何千人も死んだって?」「???……何? 何のこと?」「地震だよ。あと津波。スマトラだってさ。バリは感じなかったのか?」。
そのあとの会話はあまり覚えていない。ひどい熱があったのだ。自分が病気のときは、世界で何が起こっても目の前のこと、頭が痛いとか吐き気がするとかしか感じる余裕はないんだな……と変な感心をしつつ、「地震……津波か」とぼんやり考えていた。
翌朝、フラフラしつつネットカフェに行きメールを開いてみると「大丈夫?」「Are you OK?」というメールが世界中から届いていた。日本、イギリスはもちろん、ヨーロッパ、アメリカ、南米からも。混乱し、あわててBBCのホームページを開いた。読み進むうちに愕然とした。
この時点では、震源に近いインドネシア北部アチェ州からのリポートはまだ文章のみで、被害の写真はタイやスリランカのものばかりだったが、それだけでも被害の広がりのすさまじさを知った。アチェはどうなっているのだろう?
text & photos / Kani Sae 00:00
通信002 アチェの特殊な事情と、 |
アチェ州はインドネシアの中でも特殊な存在である。インドネシアがオランダから独立して以来、一種の自治を保っていて、1970年代からGAM(The Free Aceh Movement)と呼ばれる独立派ゲリラとインドネシア国軍との間で激しい争いが繰り広げられてきた。1998年にスハルト大統領が退陣し、東ティモールのインドネシアからの独立が認められたのを見て自分たちにも独立の希望があると思ったのか、インドネシア各地で独立運動が活発化する。
特に2002年になってからアチェでの抗争は過激化し、ゲリラと国軍の間に挟まった一般人の死亡が毎日伝えられるようになった。東ティモールの二の舞いでアチェまで失いかねないと思ったインドネシア政府は、ブッシュ大統領の「テロに対する戦い」のスローガンをまとって、東ティモール侵略(1975年)以来最大と言われる軍事作戦を展開、外国人ジャーナリスト、リサーチャーなどのアチェへの入域を禁止した(この間イギリスとオーストラリアの女性リサーチャー2人が1ヶ月国軍に監禁されたり、日本人のカメラマンが強制送還されている)。
東ティモールの取材以来、インドネシア各地の独立運動に興味を持った私は、ロンドンにいた間にもアチェの政治活動家や政治亡命者たちと交流を続けていた。アチェにもいつか行ってみたいと思っていたが、「アチェに関わっていることが当局に知られたら強制送還、再入国不可は免れないよ」という友だちの助言に従って、じっと見守るしかなかったのだ。
だから今回の津波災害で震源地から一番近く、一番被害の大きなアチェが世界のメディアに初めの数日ほとんど出てこないのを見て、「やっぱりアチェだからね」と思った。災害から数日後に、政府は外国メディアがアチェに入ることを許可したが、実際初めてのアチェからの生のレポートがBBCに流れたのは私の知っている限り新年明けてからだ。
text & photos / Kani Sae 01:00
通信003 携帯の電波の届く限り、刻々と変わる |
そもそも、私はなぜインドネシアにいるか。2002年の東ティモールでの取材以来、私はイギリスでウツウツしていた。イギリスの物価の高さは今では有名だが(編集部注:実感では東京よりだいぶ高い by編集長アオキ)、生活費のためにイベントや結婚式の写真を撮る毎日になっていた。もちろんそれはそれで立派な仕事ではあるけれど、「私はそもそもなんでフォトジャーナリストになろうとしたんだっけ?」と問わずにはいられない日々が続いていた。「いっそアジアに住んでしまえば、生活費も安いし、私のやりたいトピックのすぐそばに身を置ける。ティモールにもまた行ける」、そんな思いで去年インドネシアに移ったのだ。
今回の津波災害のひどさを知った私は、熱でボーッとしつつも「行かなきゃ」という思いが先走り焦っていた。でも体は動かず、図らずも大みそかまでじっとベッドで考える時間を得たのだった。落ち着いて考えてみれば、速報性のあるニュースは大手通信社のカメラマンが既に映像を送り始めているし、慌てたところで通信衛星を使ってバンバン映像を送る人たちと張り合っても仕方ない。緊急救助と第一次援助が落ち着くまで待って、それからじっくり取材しても遅くはないと思い直した。
役に立たないのに興味だけで行ってしまっては、ただでさえ緊急を要する救助の邪魔になるし、一人でも多くの人が食べ物や水を必要としているときに私が援助団体の食べ物を消費しては本末転倒。世界のメディアは移り気だから、ある程度状況が落ち着けばアチェはまた忘れられてしまうだろう。でも今回の災害からの再建にはこれから10年はかかると言われている。子どもを亡くした親は何十万人、親を亡くした子どもも何十万人、家をなくした人は何百万人。これからが本当の試練の始まりだろう。それを記録してくことが、私のような立場の人間ができることで、しなくてはいけないことのような気がする。
が、実際の取材のロジスティックはそう簡単ではない。私のようなフリーはまず資金力がない。皮肉なことに今アチェの州都バンダアチェはある種の援助景気になっているらしい。ティモールでもそうだったが、膨大な人数の外国の援助機関やメディアが入ることによって、宿泊施設、車両、運転手、通訳の値段が高騰するのだ。すでに車は普段の10倍になっているらしい。仕方ないことだけれど、私にとっては厳しい。でもインドネシア語はできるので通訳は必要ないし、車は運転できないし、とりあえず自分の足で歩いて、目で見て、自分の耳で理解してみよう……。
あらかじめ決まった取材先のないままの出発は不安でもあるが、現地からの情報は入り乱れていて、実際の状況はちっともつかめない。各地ではGAMと国軍との小競り合いも起きていて、GAMが援助機関のトラックを奪ったという噂も聞く。どこでそれが起きているのか、どの程度の規模なのか、それもよくわからない(編集部注:別の未確認情報では、混乱に乗じて国軍がGAMの掃討に着手しているという噂もある)。それなら、実際に行ってみるのが一番わかりやすいだろう。どうするかはそれから決めるしかない。着いた早々何らかのアクシデントでこの連載も危うくなるかもしれないが、それも承知で編集長のアオキさんにはこの連載を引き受けてもらった。
携帯の電波の届く限り、人々の今の暮らし、刻々とかわる状況と思いをできる限り早くお伝えしたい。もし、読んでくださっている方が感じるところがあればぜひ募金をお願いしたい(編集部注:右枠参照)。これから何年もかかる復興のために。私のレポートを読んでくださった方々に募金をお願いすることぐらいしか、私がこの被害者の方々に直接貢献できることはない。
text & photos / Kani Sae 02:00
通信004 メダンにて |
取材初日。メダンに到着。さっそく計画変更だ。機内でインドネシア人ジャーナリストのチームと仲良くなったところ、明日から陸路でアチェに入るのに同行しないかと誘ってくれたのだ。これはいいかもしれない。なんといっても、空路で入るよりも彼らの車で入るほうが、小さな村などにも寄って行けるからいろいろなものが見られるはず。チケットはもったいないけど捨ててしまおう。
でも、まずはインドネシア陸軍から許可をとらないと。これは今回導入された規制で、表向き理由は外国人ジャーナリストをGAMゲリラから守るためだということになっている。でもGAMにとっては、むしろ外国人がアチェにいることは安心材料なので(編集部注:政府も世界の目があれば横暴なことはしない)、GAMが私たちを襲うわけはないはず。
陸軍の大きな倉庫には、大量の食糧や洋服が積み上げられている。フランスの援助チームとマレーシア陸軍の姿が見える。私の入域許可は官僚主義的な作業でちっとも捗らないが、インドネシア人の彼らががっちりサポートしてくれてありがたい。私はこういうとき、いっつもいい人たちに巡り合える。取材の神様がついててくれてるのかな?
(※携帯SMSで英文受信。編集部訳)
text & photos / Kani Sae 16:00
通信005 メダンにて |
やった! アチェの入域許可書を入手。明日から本当の冒険が始まる。
(※携帯SMSで英文受信。編集部訳)
text & photos / Kani Sae 19:00
通信006 メダンにて |

メダンの警察病院に入院していた5歳の女の子とお姉さん。アチェでお母さんを亡くしたという。お姉さんは原因不明の下痢が続き衰弱している。
2日目。ありがちな話だ、待てど暮らせど私たちを乗せてくれるはずの車が現れない。1日足止めなので、病院を見に行ってみた。親をなくした子どもたちがたくさん。心が痛む。
明日の朝、早く出発できるといいのだけれど。アチェの州都バンダ・アチェまでは12時間はかかる。途中で写真も撮りたい。でも山間部を夜走るのは危険だとこちらの人々に言われ、朝まで我慢。
メダンも援助景気に見舞われている。昨日の夜はどのホテルもいっぱいで、インドネシア人ジャーナリストチームのひとりの友だちの友だちという人の家の床で寝た。今日も何時間も探しているけれど、空室はみつからない。またみんなで雑魚寝か……。
(※携帯SMSで英文受信。編集部訳)

アチェから運ばれてきた津波被害者。ベッドの数が足りず、シングルベッドに2人3人は当たりまえだ。

病室に入りきれない人たちが、廊下で寝ている。お祈りをしている少女。

病院にはなぜか猫がいっぱいいた。
text & photos / Kani Sae 12:00
通信007 アチェ州 州境検問にて |
今、アチェ州と北スマトラ州の州境にいる。地元の記者団とイスラム組織と一緒にいるので、州境の通過は簡単だった。もしひとりだったら、アチェに入るのには相当てこずったに違いない。道路はところどころ冠水している。この先はもっとひどいぞと地元の人が言う。
(※携帯SMSで英文受信。編集部訳)
text & photos / Kani Sae 11:30
通信008 ゲリラは本当に誰でも攻撃するのだろうか? |
アチェに入った。ムスリムの女性がかぶるスカーフを被ったほうがいいと言われる。ジャカルタの友人に念のためと借りてきたスカーフだったけれど、用意しておいてよかった。ここからはクルマのドアはしっかり鍵をかけ、暑くても窓は開けてはいけない。インドネシア人の彼らはアチェの独立派ゲリラGAMに対してかなり警戒している。でも本当にゲリラは誰でも見境なく攻撃するのだろうか。「ゲリラ」という名前で不必要に異端視していないか。彼らにだって戦う理由と正義がある。
(※携帯SMSで英文受信。編集部訳)
text & photos / Kani Sae 11:36
通信009 今晩はここでストップ |
イアングサという名前の村で車が止まった。ドライバーはもう今晩はこれ以上走れないという。ここから先はGAMの支配下なのだそうだ。ここで宿をとり、明日また朝早くに出発だ。まだバンダ・アチェまでは10時間はかかる。もうすでに2日も無駄にしてしまった。バンダ・アチェで待っている人たちはかなり心配しているだろうな。
(※携帯SMSで英文受信。編集部訳)
アチェはスマトラ島北端の州
地震の震源から最も近く、最近の調査では津波は最大で34mの高さに達していたという。
text & photos / Kani Sae 18:00
通信010 避難している人たちのキャンプが増えてきた |

ひと村まるごと避難してきたという人たちのキャンプ。写真の人はその村の村長。村の誰もが身内を亡くしたという。

GAM(独立派ゲリラ)のベースと言われている村だが、平和そのものに少なくとも見える。軍のチェックポイントが10kmごとにある。
いくつも通り抜ける村々はとても平和に見える。田んぼで作業をしている人の写真を撮っていて田んぼに落ち、膝まで泥にはまってしまった。でもいい写真が撮れたから、いいのだ。
だんだん避難してきている人たちのキャンプが増えてきた。白い砂のビーチは皮肉なほど美しい。まだ州都バンダ・アチェまで5時間だというのに、津波の被害は相当なものだ。「こんなもんで驚くな、バンダ・アチェは想像を絶する状態だよ」と人々が言う。
昨日の夜は、地元の人の家で、そこの娘さんのベッドを半分借りて、娘さんと一緒に寝た。みんなとっても親切で、たくさん食べろとすすめてくれる。また早朝出発。Peureulakというゲリラの本拠地も通った。10キロごとに陸軍の検問がある。
(※携帯SMSで英文受信。編集部訳)

インドネシアのイスラム系NGOから洋服の配給を待つ家族。インドネシア各地から何百トンという古着がアチェに送られた。
text & photos / Kani Sae 11:50
通信011 どぶのような、何かが |

バンダアチェの街中で。家をなくした人たち。異臭が漂っているので皆マスクをしている。
やっと、バンダ・アチェにたどり着いた。とてもきれいな街。でも恐ろしいほどに破壊されている。体を洗うのも、茶色く濁ったままの井戸水。街をなんともいえない異臭が覆っている。どぶのような、何かが腐っているような。
インドネシア赤十字社に話をつけることができた。明日からの遺体収集オペレーションに同行させてもらえる。10日間のオペレーションなので、その間は帰ってこられない。救援に向かう場所は携帯の電波が届かないので、この携帯SMSもその間はできない可能性が高い。イ赤十字社のスタッフはマスクとブーツをくれ、コレラの予防接種を打ってくれた。
(※携帯SMSで英文受信。編集部訳)
text & photos / Kani Sae 09:40
通信012 インドネシアの援助機関もいい仕事を |

スマトラ島の最北端、アチェ州の州都バンダアチェでは、まさにこんな風景が広がっている。

破壊された家々が押し寄せた川岸に自分の家の一部を見つけたのだろうか。せめて使えるものを探している人々がいる。
世界から集まった援助機関が登録をしている国連のオフィスに行ってきた。日本のJICA(独立行政法人 国際協力機構)を探したけれど、ジャカルタの代表の名前があっただけ。国連のスタッフいわく、JICAはお金を提供しているだけだからここには登録していないのだとか。
日本から得ていた情報とは現実はちょっと違っている印象。日本人は金を送ってくるばかりで危険な場所にはすぐに来ず、安全で快適な環境が整うとノコノコやってくる人たちだと思われるのはちょっと悔しい。
バンダアチェで見る限り、世界各国からの援助機関とインドネシアの組織の間にはかなりの溝があるように見える。ある地域は外国人だらけだし、別の地域はローカルしかいない。2つのグループの間には何のコミュニケーションも連携もないようだ。外国のメディアは外国の援助機関がやっていることだけを報道し、ローカルのメディアはローカルの組織がやっていることだけを報道している。
だから、世界の大手メディアがインドネシアの組織がまるで何もしていないように伝えているのはフェアじゃないと思う。私の見る限り、インドネシアの組織もかなりいい動きをしている。しばらくインドネシアの活動にくっついて取材をしてみることにする。とにかく明日からは遺体探しだ。幸運を祈ってて!
(※携帯SMSで英文受信。編集部訳)
text & photos / Kani Sae 20:22
通信013 歩いていると、5mおきくらいに |

崩れた家の下から、大人と子どもの遺体が見つかった。大人の体は子どもをかばうように折り重なっていたという。

トラックで捜索地域に向かう。雨季なのに、今年は雨がほとんど降っていない。空気はからからに乾き、砂埃がもうもうと舞い上がる。

私がテントで寝起きを共にしている、インドネシア赤十字の西ジャワチーム2。インドネシア赤十字は、今インドネシア国軍と並んでアチェで国内の団体としては最大規模で活動を展開している。
今、遺体捜索のオペレーションから戻ってきたところだ。結局、インドネシア赤十字のスタッフが使う予定のヘリが飛ばず、オペレーションはバンダ・アチェ郊外のダラサラム地区で行われた。200人程度ずつのチームに別れ、膝まで水に漬かりながら遺体を捜す。マスクを二重にしているのに、ものすごい異臭が侵入してくる。私が同行したチームは1時間ほどの間に32体を水から引き上げた。
本当にそこらじゅうに遺体がある。歩いていると、5mおきに人らしいものの姿が目に入る。捜索を行った村は浜から少なくとも500mは離れているのに、ほぼ完璧に平らになっている。まだ数千人の遺体があるはずだとか。
バンダ・アチェ(アチェ州の州都)のローカル新聞セラムビによると、この街だけで死亡が確認された人が2万4389人、行方不明がまだ5万4780人いるという。いかに多くの遺体がまだ瓦礫の下に埋もれているかが分かる。
(※携帯SMSで英文受信。編集部訳)
●かにさんによる、このインドネシア赤十字社チームによる遺体捜索のレポートは「日刊ベリタ」でより詳しくご覧になれます(50円の有料コンテンツですが、ぜひご覧ください)。
text & photos / Kani Sae 12:07
通信014 遺体捜索のすぐあとに |

捜索のガイドをつとめるためにやってきた、ここにあった村の住人の子。海水溜りの脇に座ってずっと捜索を見つめていた。彼らは村のほとんどの人を失った。

作業終了後。重い足を引きずって、集合場所まで5kmを歩く。
昨日の遺体捜索は、昼過ぎ1時頃には切り上げざるをえなかった。持ってきた遺体を入れる袋がなくなったからだ。さっそく、遺体を運んでいた手袋をはずし、手で、持ってきたブングス(紙につつんだお弁当)を食べる現地ボランティアを見て「うぁ、さすがタフ……」と思った。遺体の入った袋から10mと離れていなくて、まだ匂いだってする。「食べないと体がもたないよ」といわれ、私も持参した携帯スプーンで吐き気を飲み込みながら食べた。
夜になってその日のことを考えた。思ったほどショックを受けていないらしい。ちょっと前の私ならその場で取り乱していただろう……プロらしくなったものだと自分で変に関心してしまった。
text & photos / Kani Sae 09:15
通信016 みんなも、私も、涙が止まらない |

大勢のムスリムがメッカに巡礼するイドゥル ハッダ ハの日。ここアチェでも朝7時から一斉にお祈りが始まる。人々の頬を涙がつたっている。普段は飄々としているように見える彼らの心の痛みを初めて目の当たりにした。
1月21日は「イドゥル ハッダ ハ」というイスラムのお祭りである。世界中のイスラム教徒がメッカに巡礼に行く日らしい。
バンダ・アチェでも、中央モスクに何千人もが集まった(編集部注:アチェ州はインドネシアの中でもとくに熱心なイスラム教徒が多い)。男の人のみのお祈りの場所に女の子が父親らしき人に連れられている。きっと母親やその他の女性の親戚は亡くなってしまったのだろう。
お祈りが始まるとあちこちで人々が泣き出した。普段は自分たちが生きるので精一杯だからだろうか、決して涙を見せないことに驚いていたが、今この瞬間に亡くした人たちへの思いが吹き出しているのだろう。
カメラのファインダーを見つめながら、私も涙が止まらない。
(※携帯SMSで英文受信。編集部訳)
text & photos / Kani Sae 17:25
通信015 遺体捜索のストレスで下痢に! |
やっぱり、すごい下痢になってしまった。たぶん昨日の遺体捜索のストレスが原因だろう。ラッキーにも日本人の医師に会えたので、点滴を2本分打ってもらった。だいぶ楽になる。明日はイスラム教の大切なお祭りの日。明日までには復活しなくちゃ。
(※携帯SMSで英文受信。編集部訳)
text & photos / Kani Sae 17:25
通信017 贔屓目に見ても貧弱な日本の援助隊。 |
インドネシア人記者や外国人記者の現地語通訳が、少し大袈裟に話をしたりドラマチックな勝手な演出をして話しているのを立て続けに何度か見かけた。特に外国人に対しては同情を買おうと思ってか、その傾向が強い印象。英語もインドネシア語も分かる者として傍で聞いていると怪しい通訳が多い。日本にもいろいろな誤報が伝わっているのではないだろうか?
日本からの援助隊の活躍ぶりを伝えようと思ったのだが、JICA(独立行政法人 国際協力機構)曰く「JICAの過去最大のオペレーション」は、スタッフ12~13人の多くは体調不良とかで、リーダーは点滴しているような状態。昨日自衛隊にクリニックを引き継ぎ、撤退していった。
後日またレポートしますが、同じ政府の援助隊でも、デンマークは20人のチームで140人収容可・開腹手術可な病院の3ヶ月分のコスト(スタッフの給料込み)がわずか約6.5億円とか。日本の145億円(政府のインドネシアのみに対する援助額)は効率よく使われているのかしら。やや心配。
text & photos / Kani Sae 19:51
通信018 40℃近い気温。雨季なのに雨が降らない |
Cafeglobeユーザーの皆さんにたくさんのことをお伝えしたいのは山々なのだけれど、昼間は取材に追われているし、夜は疲労困憊。なんといっても気温が40度近くあるのだ。本当は今は雨季のはず。でも今年は全然雨が降らず、砂埃が舞っている。下痢は止まったけれど、ちょっとした不眠症になっている。まだ遺体捜索のショックが尾を引いているのかも。
たぶん、無意識に感情を押し殺しすぎていたのだろう。そのせいで溜まった感情の制御ができなくなっているのかも。ここにいる人の多くが同じような症状なのだとか。
(※携帯SMSで英文受信。編集部訳)
text & photos / Kani Sae 22:28
通信019 片腕を切断されたおじさんになぐさめられる |
眠れないまま、悶々とする。病院の先生には下痢も不眠もPTSDだと言われた。タフになったと思っていた自分が、実は眠れていなくて、実はそれが遺体捜索のせいだと?? トラウマ? これをトラウマと言ったら、アチェの人たちはどうなのだろう?
自分のもろさに腹が立つ。あの日はあんなに何も感じなかったのに。いったいどこで間違ってこの状態になったのか。へんてこな病名をつけられて、かえって精神的にバランスが崩れたようだ。
明け方3時にベッドから抜け出し、隣の病棟テントを抜けようとすると、津波で怪我をして左腕を肩から切断したおじさんが、ベッドに座ってコーランを唱えていた(コーランは読むというより、歌っているように聞こえる。お経よりもメロディがある)。薄明かりの中、コーランを唱える彼を見て、言葉じゃなく、どかんと彼の切なさが伝わってきた。かわいそうとかじゃなくて、ただ切ない。「眠れないの?」と聞かれ、泣きそうになりながら「うん。でももう寝る」と言って、ベッドに戻る。
彼のただその一言が私の崩れそうになっていた精神のバランスを戻してくれたみたい。あまりにも大きな彼らの悲しみを、切なさをお腹で感じることにで、私の心はあのくだらない病名を吹き飛ばす力を得たようだった。
text & photos / Kani Sae 10:30
通信020 「死体のある場所教えてください」だって! |
今日は気を取り直して、ノンアポで各国軍のヘリポートに行って、フランス軍のパイロットに直接交渉してみたら、一番被害のひどかったチャランという町までヘリでに連れて行ってくれるとOKをもらえた。今日の5時に向かう。1日か2日で帰って来ると思うので(帰りのヘリに乗れないと困るし……)また続報流します。
2日間ヘコたれて具合が悪かったので、日本とデンマークの病院のお世話になっていたのだけれど、デンマークの移動医療施設のすばらしさに大感激! ゴミ処理機やトイレも環境にやさしいタイプだったり。これもまた後日レポートしたい。
しかし、このところ日本のメディアが増えてきていて、私が取材してきた内容をそのままパクろうとする人がいて結構むかつく! 「死体のある場所教えてください」ですって。これは某メディアの支局長。
text & photos / Kani Sae 14:43
通信021 フランス軍ヘリで行って来ます! |

自衛隊ツアーご一行様。ちょっとイジワルかなと思ったので、後姿のショットだけ。
約束どおり、昨日の5時にヘリポートに行ってみたのだけれど、ヘリの姿はなし。自衛隊のヘリが日本人ジャーナリストをたくさん載せて飛び立っていくのが見えた。めいめい大きなスーツケースを引っ張って、海外ツアー団体のような姿が浮いて見える(普通ジャーナリストはこんな災害地にスーツケースなんかでは来ない)。
今朝どうしてチャラン行きのヘリがなかったのか聞いたところ、「あれ、サバン(フランス軍のベースがある町)に行きたいんじゃなかったっけ?」。変なの。フランス人の耳にはチャランもサバンも同じに聞こえるんだろうか。
昨日引き受けてくれたパイロットは勘違いを謝ってくれて、なんとか今日のチャラン行きのヘリに乗れるよう努力してくれると言っていた。でも、「軍のヘリはジャーナリストのタクシーじゃないから、フランスが主役の記事を書いてね」ですって。特別良く書くようなことはできないけど、どんな具合なのかはとくと取材させていただきましょう。
昨日は睡眠薬を飲んで9時間ぐっすりでした。そしてちょっと寝過ごしてしまった! では、急いで行って来ます! 数日戻らないかもしれません。チャランは携帯の電波が届かないので、次のレポートは数日後になります。
(※携帯SMSで英文受信。編集部訳)
text & photos / Kani Sae 07:30
通信022 いよいよヘリコプターに乗る |
まだ1日に1~2回は余震がある。地元の人たちはこれはアッラーの怒りだと言う。インドネシア国軍がお酒や売春などアチェにはなかったものを持ち込んで、風紀が乱れてきていたからだ、と。
ヘリポートでは、フランス軍のヘリとパイロットが私を待っていてくれた。なんと、お客(?)は私だけらしい。ラッキー!
(※携帯SMSで英文受信。編集部訳)
text & photos / Kani Sae 17:24
通信023 だから日本のニュースは |
フランス軍のヘリでチャランに行って1泊し、今日の午後アメリカ軍ヘリで帰ってきました。アメリカ軍、おまけに噂のエイブラハム・リンカーン号(アメリカが今の基地にしている巨大空母)でトランジット(降りられなかったけど)してしまった。
チャランの取材は大成功。面白いスト-リーがとれたので、あとでまとめて送ります。
あさってはもう一度フランス軍のヘリで、今度は基地のあるマラボーへ行きます。今度はちゃんとフランス軍の活動が撮れるように念を押しました。短期間だけ、いわゆる“embeded”な従軍記者になるのだ(編集部注:アメリカ軍のイラク侵攻の際、embededな記者たちの客観性が問題になったのでそのジョーク)。寝るところもご飯も一緒。この条件は、どうしてもフランス軍の食生活を知りたい私の個人的な興味でもあるのだけど……(笑)。
それにしても、今日また別の日本人記者に会ったのだけど、チャランの話をしたら自分も行くとか言い出して、思いっきりパクられそう。どうして日本人記者ってこうなんだろう? パクって当たり前でしょうって顔している。だから日本はどの新聞もどのテレビもほとんど同じニュースなのかな。ヨーロッパだったらゼッタイ許されないのに! ほんとに! 業界から追放されちゃうよ!
text & photos / Kani Sae 22:28
通信024 各国の医療援助団体の中でも |

デンマークの移動病院のテント内部。120人が入院できる設備が整っている。

テントの中には、開腹手術ができる手術室も備わっている!
先日体調を崩した際、日本の徳州会という医療団体の先生に診てもらったのだが、彼らが施設の一部を借りていたのがデンマークから支援に来ているDEMH(デンマーク緊急医療モバイルホスピタル)だった。その設備や体制の充実ぶりがすばらしかったので、少し紹介したい。
DEMHはデンマーク防衛庁内に作られた緊急災害に瞬時対応できるように作られた医療チームだ。今までも、イランやインドのグジャラートの大地震、爆撃後のアフガニスタンなどで活躍してきたという。チームの構成は医師2人・看護師6人、麻酔士1人、それに設備ロジスティックの技術士、国連や他NGOとの調整をするオフィサー、シェフ(!)までいる。医師や看護師以外はふだんは普通の仕事(消防士・電気技術士・ケータリングなど)をしている人たちである。いざというときに政府から呼び出しを受け、オペレーションに参加する。ボランティア的ではあるが、オペレーションに参加している間は、普段もらえる分の給料は政府が保証してくれるという。
空気で膨らませるドーム型テントには、開腹手術ができる手術室、入院病棟も備わっている。今このアチェでこれほどの野外施設を持っているところは軍の病院でもない。資材は総計80トン、輸送飛行機2台分。これで1ヶ月はもつという。必要要請を受けてから出発準備完了までわずか48時間だった。
text & photos / Kani Sae 14:12
通信025 「援助の基本はまず自分たちが |

夕食のあと、夜な夜なミーティングが続く。

トイレはコンポスト式で、2ヶ月ほどで土に還るという。病院施設からの汚水は一度浄水機を通して、環境に問題のない程度にして捨てている。
シェフのティナさんは毎朝新鮮なパンとケーキを焼く。炎天下の中休みなく働くスタッフの体調を気づかい、お腹のすいたスタッフにはいつでもチャチャッとおいしいものを作ってあげるのだ。ほとんどの援助団体が軍などのレトルト食品、日本の医療チームが一日3食カップラーメンを食べているのを考えると、これがどれほどのことかわかると思う。
「まずは自分たちがハッピーであること、この前提がなければ絶対にいい援助はできない」と麻酔士のアストリッドさんは言う。日本人はえてして、「卑劣な条件でがんばって援助している人たち」という自己犠牲を賞賛しがちだ。でも、はっきり言って、自分たちのしっかりとしたロジスティックを持たず、十分な設備も持たずにやってきて、結局自分たちがダウンしてしまっては元も子もない(もちろん下痢に倒れた私も人のことを言える身ではないが……)。
text & photos / Kani Sae 14:20
通信026 どうしても比べてしまう、 |

JICAのクリニック。もう既に撤退してしまって、自衛隊が場所を移し引き継いでいる。
一方、日本のJICAのクリニックは、炎天下の熱風が入って来るペラペラのテントで患者さんを診ていたが(もう既に撤退してしまって、今は自衛隊が場所を移し引き継いでいる)、自分たちがダウン、点滴を打っていたような状態である。
40℃まで上がることもある日中は暑すぎて、患者さんもあまりやってこない。しかし日本スタッフは夕方には自分たちの借りている民家に帰ってしまう。日本政府を代表するJICAだというのに……。
DEMHのプレスオフィサー、ソービォンさんによると、「デンマークのこのすべてのオペレーションは人件費、消費物資込みで3ヶ月、400万ユーロ(日本円で約5億4000万円)でできる。私たちは既にテントなどの施設を所有しているので安くできる」という。日本が一から買いそろえても、4億円ほどあれば足りるだろうという。日本のインドネシアへの援助総額は145億円とか。まかなえないわけはない。
ソービォンさんが最後に言ったひとことが印象に残る。「日本の医師は優秀かもしれないが、今度来る時は自分たちの設備を持ってきてほしい。せめて自分の寝るところぐらい。世界25ヶ国が調印しているInternational Search and Rescue Advisory Group (INSARAG)という団体があって、その規定に各自自分たちのロジスティックは自給自足でき、 他団体の負担にならないようにってあるんだよ」。
text & photos / Kani Sae 14:30
通信027 フランス軍艦「ジャンヌダルク」にて |
今、フランスの軍艦「ジャンヌダルク」の上だ。アチェに来て2週間、いままでで最高の食事にありついている。3コースでワイン付きとは! やっぱり私の読みは正しかった。今日は巨大な船の中を案内してもらった。600人ほどが乗っているという。明日はオペレーションに同行だ。
船のデッキに座って兵士たちがジョギングをしているのを眺める。ちょっと雲が多いけど、夕焼けが美しい。2週間ぶりに少しリラックスできた気分。
text & photos / Kani Sae 21:31
通信028 フランス軍の取材終了 |
やっと携帯圏内に戻ってきたのでこのメッセージも送れるようになった。昨夜はフランス軍のキャンプに泊まった。世界的に有名なフランスの食事。しめしめ。
今日は軍が行っている予防接種のプログラムに同行した。空気が本当に乾燥している。
text & photos / Kani Sae 00:27
通信029 とうとうヘリでチャランへ |

前日に私のリクエストを聞き間違えた、ヒュイ氏(左)。今回のオペレーションの隊長。翌日にはきっちり約束を守り、私一人のためにチャランにヘリを着陸させてくれた。
(以降、1月27~29日までの記録)
ついにヘリに乗ることができた。前日に「チャラン」と「サバン」を間違えて、申し訳なく思ってくれたらしい(3時間も待たされた挙句乗れなかった)。向こうから走ってきて、「待ってたよ! 君一人のためにチャランに着陸してあげるから、早く乗りなさい」と言ってくれたのだ。大勢の報道陣がダメ元でヘリ待ちをしている横をすり抜け、ちょっといい気分。
チャランには初めから行きたいと思っていた。アチェ州の西海岸で、被害が最もひどい所と言われていた。大型飛行機が着陸できるようなスペースがないため、ヘリと船でしか援助物資を運べない。バンダアチェからの道路は地震で壊されている。何度も赤十字に頼んだが、物資輸送が優先と行かせてもらえなかったのだ。やっと最近赤十字もチャランにキャンプを作ったので、今なら一人で行ってもとりあえず寝る所はあるだろう。
「チャランに行っても何も撮る物ないですよ」と日帰りで行ってきた日本人の記者が言った。人もいないし、何もないですよと。どうしようかなと思ったけど、やっぱり自分の目で見ることにした。
ヘリに乗り込み、安全ベルトをしっかり締める。ヒュイ隊長は私のために一番眺めのいい席を取ってくれる。全開のドアに向かって座ると、ヘリはそのまま飛び立った。
思ったより揺れない。昔、小型セスナ機に乗って思いっきり酔ってしまったことがあるのでちょっと心配していたが、全開のドアから入ってくる風と景色に圧倒されつつ、ものすごく気持ちがいい。

ヘリコプターにのせれる物資量は限られているので、人の数は最小限。多くの報道陣がヘリに乗れるのを待っているのを尻目に乗り込む。
バンダアチェのヘリポート周辺は津波の被害がなかったので、のどかな田園風景が広がっている。アチェは津波さえ来なければ本当に美しい場所だったろう。しかし海に出て西へと旋回すると景色が急変する。あとは写真を見てもらった方が早い。被害のあった地域とそうでない地域の差が歴然としている。緑と茶色のコントラストは凄まじい。

緑の美しいアチェ内陸部。

津波を受けた地域(茶色の部分)とそうでない場所がはっきりと分かれている。
壊滅状態の工場が見える。海岸線ぎりぎりに建っている。あとで聞いたら、日本も出資しているセメント会社だとか。いったい何人の人がここで働いていたのだろう。そして何人が流されて今も行方不明なのだろう。壊滅状態の村々をいくつも見ながら、ヘリはチャランに近づいてきた。(1月27日)

アチェ郊外、ロンガにあるセメント工場「PT Semen Andaras Indonesia」。日本の会社が出資しているという。壊滅状態だ。
text & photos / Kani Sae 00:36
通信030 たった3000人の村に、 |

どこでも、ヘリが近づくと子どもたちがワーッと集まってくる。物資が届くのを待っているのだ。
「あれは?」。ヘリがチャランに近づくにつれ、何かが海岸に山積みになっているのが見える。衣類の山だ。人々が大きな船から荷物を運び出している。

3000人の村にこの量の衣料援助……。ほとんどがボロボロの汚い中古だ。

どこの団体がなぜこんなにたくさんの古着を送ってきたのかは誰に聞いても分からない。
ヘリが海岸脇の平地に着陸すると、人がわーっと寄って来る。フランス軍からの援助物資を待っていた人たちだ。でも残念ながら、今回の荷物は私一人。フランス軍は私を降ろすとサッサと飛んで行ってしまった。「あなた一人? 物はないの?」とみんなわいわいと言って、「なんだ……」と残念そうに帰っていった。
この中にはフランスのNGO「Action Contre la Faim (Action Against Hunger/飢餓への抵抗活動)」のスタッフもいた。無線も電話も通じない状態で、ただ受け身で物資を待っているという。毎日、熱風の中を30分以上も歩いてヘリが到着するのを見に来るそうだ、「今日こそは何か届くかも……」と。ヘリに乗りたい外国人も、いつ来るとも知れないヘリを待っている。バンダアチェにはヘリの予定を調整する人たちがいたが、ここチャランにはそれすらない。
ここにはインドネシア軍しか駐在していない。そして彼らも木の下でただ日がなお喋りしているだけである。いつ、誰が来るとも知れないヘリを一日待っているなんて……先が思いやられる。「フランス軍の活動をするはずだったのに、何もしてないじゃん!」。またしても何か誤解があったようだ……。
仕方なく、頭からサロン(布)をかぶって歩き出す。とにかく暑い。日差しが肌を突き刺す。とりあえず、あの衣類の山を見に行った。何十トンはあるだろうか、本当に小山のようにある。「この船どこからきたの?」と聞くと、「ジャカルタ」とか「スラバヤ(東ジャワの大都市)」とかみんな適当に答える。とにかくジャワから来たってことか。どこの団体がなぜこんなにたくさんの古着を送ってきたのかは誰に聞いても分からない。とにかく船が着いたから、荷を降ろしているだけだ。津波の後、チャランの人口は元の6000人から、半分の3000人ほどになってしまったという。3000人に何十トンの古着はいかにも多すぎる(それもけっこうぼろぼろの物ばかり)。
インドネシア赤十字のキャンプに向かう。フランス軍がいない以上、赤十字に寝床を求めるしかない。赤十字のキャンプも、避難民キャンプ同様かそれ以上に悲壮感漂っている。ビニールシートの屋根は雨が降ったら大変だろう。おまけにスタッフはもう2週間以上いるというのに、未だにトイレも水浴び場もないのだ。ここもフランスのNGO同様、バンダアチェから切り離されているらしい。クリニックには薬のストックもなく、翌日バンダアチェに帰るという私に、必要なもののリストを持って帰って、送ってくれるように頼んでくれと言う。
ここには国際赤十字のスタッフもいる。彼らのほとんどはインドネシア語の分からない西洋人たちであるが、彼らは衛星回線の携帯電話だって持っている。なんで、協力しないのだろう? こういう組織内の問題には首を突っ込まないようにしているが、またしてもコミュニケーション不足による不合理を見た。(1月27日)
text & photos / Kani Sae 01:21
通信031 アメリカ人による、アメリカ人のための援助? |

炎天下、15kmも歩いて食べ物を分けてほしいと訴えにきた女性。食糧は援助団体のテントには山積みになっているのに、飢えている人がいる。
チャランの陸の孤島状態にやきもきしていると、偶然、アメリカ政府を代表する援助組織「USAID」の人たちがアセスメントにやってきた。援助したあとそのお金がどう使われているか調査するチームだという。
ワシントンから来たばかりという調査員の女性は、日系アメリカ人通訳とペアになり、インドネシア赤十字やフランスのNGO「Action Contre la Faim」にインタビューをしに行くという。同行することにした。お金の使い道などのアセスメントをするならさぞかし時間がかかるだろうと思いきや、インドネシア赤十字でわずか15分。あれ? もう終わり? 次にAction Contre la Faimに向かう。
先にお伝えした通り、彼らは自分たちの寝る所もままならないまま毎日供給を待っている状態である。USAIDの話では、このNGOにも結構な額を援助しているという。トイレの設置や井戸の清掃(津波後、井戸のほとんどが海水や泥水に汚染されて使いものにならなくなっている)など衛生問題に取り組んでいると聞いていると調査員の女性は張り切っている。
30分ほど歩いていると、向こうからAction Contre la FaimのTシャツを着た人が歩いてくる。近づいて自己紹介をする。彼が一瞬迷惑そうな顔をしたのを私は見逃さなかったぞ! 日系アメリカ人が、相手の話を聞く前にいきなり、「ところで、もっとお金は必要ない? たとえば、もっとプロジェクトの規模を広げるとか、もっと地元の人を雇うとか。最大限に規模を広げたらいくらかかる?」。フランス人「あ~、うーん……いきなり聞かれてもちょっと……」。アメリカ人「予算はあるんだよ。ただ、地元の人間が今ボランティアで働いているらしいから、この関係が悪くなっても困るんだけどさー……」とアメリカ英語でまくしたてる。
フランス人はたじろぎながら、このドナー(援助を出資している団体のこと)を怒らせないように、でもなんとか会話をかわそうといきなり私に話を振る。「カメラマンでしょ? うちのプロジェクトはそれほどフォトジェニックじゃないからつまらないかもよ。でもとりあえず、誰かに案内させるよ。僕はちょっとミーティングがあるから。じゃ!」と去っていってしまった。代わりの人がやってきてアメリカ人をプロジェクトに案内する。私は適当に周囲の写真を撮りながらついていく。実際見られたのは、トイレ3つと水浴び場2つ。あとは地元の人の掘っていたトイレ。でもそれも、ただの穴で1mくらいの深さしかない。

トイレ用の穴を掘る人たち。しかし、地下水脈などをきちんと読んで掘らないと、伝染病の病原菌が井戸水を介して蔓延する危険性だってある。
茶色の地下水が下に溜まっている。子どもたちが下痢なので、ここで用を足させるとのこと(地元の人曰く)。でも、地下水に接触する可能性のある所に病原菌をまき散らせば、井戸水を介して伝染病が広がる可能性がある。しかしアメリカ人はこういう詳細にはあまり興味がないようだ。今後いかにお金を使うかの方に夢中のようだ。
500mほど歩くと道路が行き止まりになった。そこにたくさんの古着が捨てられていた。さっきの港から持ってきたのだろう。アメリカ人はこれにもちょっと眉を寄せただけで、ノーコメント。自分たちのお金と関係ない所には興味がないのだ。なんせ、ワシントンからわざわざ来たのだから時間の無駄はできない! 今日の午前中に来て午後2時のヘリで帰るのだから!

行き止まりの道に捨てられた古着たち。捨てるほど余った古着を燃料代わりに燃やしている風景も見た。極端な援助の偏り。というより、ただ「かわいそう」だけで行動してしまうと、こういうことになる。ジャワの人々の善意も、配給のコーディネートができていないばかりにこのような結果になった。
私が言いたいのはAction Contre la Faimの活動の悪口ではない。彼らはこれからも長期間アチェに滞在し、じっくりと腰を据えて活動していくだろう。結論を出すのは時期尚早だ。私が疑問を投げかけたいのは、国を代表して何千、何万ドルという援助金を出す側の姿勢だ。「もらった分は必ず期限内に使い切れ」という姿勢、地元の知識もないまま半日程度のアセスメントで何が分かるというのだろうか。小さなNGOはいつもお金に困っている。大型のNGOは普段はお金に困っているけど、このような災害が起きると一度にドッと活動のキャパシティを超えたお金が集まり、有効に使い切れない。でも要らないとは言えないし……数限りない援助の矛盾。
USAIDのチームは来た道を徒歩で戻り始める。私はもう彼らと炎天下の中歩く気はないので、通りかかったおじさんに頼んでバイクに乗せてもらい、一人、町に向かって戻る。もちろん町といっても何も残ってはいなく、更地にテントがいくつもあるだけだ。あちこちで人々が物を燃やしている。プラスチックもナマモノもすべて一緒くただ。空気の汚染も、水の汚染も激しい。咳をしている人、湿疹に覆われている人や子どもを大勢見かける。
町の端に、WFP(世界食料計画)の大きなテントがあった。チャランに物がないなんて嘘だ。テントの中には今後6ヶ月はもつはずという食糧が積み上げられている。その前を通りかかったとき、2人のアメリカ人に呼び止められる。彼らもUSAIDの調査チームだったが、通訳さえ連れていない。彼らは私に赤ちゃんを抱いた女性が何を言っているのか聞いてほしいという。アチェ人の女性が口に物を入れる動作をして、食べ物をくれと言っているらしいと。聞いてみると、お米が欲しいと言う。子どもに食べさせるお米がないそうだ。15km離れた村から歩いてきたと言う。村にはあと2人子どもがいて、食べ物を待っているらしい。それを聞くと、アメリカ人の調査員はまたしてもヒステリックにまくしたて始めた。「このテントにはこんなに食べ物があるのにどうして飢えている人がいるのかしら! 私たちはすごい額を国連にも出しているのよ!」。もう一人の男性は「アメリカの人々の善意がちゃんと届くように(For the kindness of American people)、プログラムオフィサーを置くべきだ!」 。そんなことをここで平然と言いのけるのがアメリカ人のすごいところだ。アメリカ人の善意なんかより、この女性と赤ちゃんはどうするのだ。私たちの会話がわからず、彼女は不安そうに私たちの顔を見ている。(1月27日)
text & photos / Kani Sae 00:54
通信032 赤ちゃんはもらったミルクをごくごくと飲んだ |

倉庫に山のように食糧を抱えているWFPでも埒があかず、ドイツのNGO「German Emergency Doctor」をたずねて診てもらう。注射器で水をもらう赤ちゃん。
「私たちは2時のヘリに乗らないといけないから、あなた、アメリカ人の病院にこの人を連れて行ってあげて。きっと彼らが助けてくれるはずよ」「アメリカ人の病院ってどこですか。私、今着いたばかりなのですが……」「私もよくわからないけど、あの白いテントのあたりだと思うわ」と500mほど先を指差す。おいおい、ほんとかい? でもとりあえず、女性をそのままほっとくわけにもいかず、その白いテントまで連れて行くことにする。アメリカ人は「あなたって本当に親切ね!」と大袈裟に感謝して去っていった……。
炎天下の中また歩き、白いテントの前まで来ると確かにアメリカ軍の兵士が数人いる。「ここに病院があるって聞いたのですが……」「病院なんてないよ。確かにドクターはいるけど、軍のドクターだから現地人はみないよ。それに今いないし。ソーリー マーム」と言われる。ずっと赤ちゃんを抱いて歩きっぱなしの彼女、アリシャさんになんて言っていいのか分からず困ってしまう。
すると、通りかかった人がドイツ人のやっているクリニックがあると教えてくれた。どこか聞くと「あっち」と山の方を指差す。「あっちって言われても……」チャランは確かに小さな町だが、この気温の中歩くとなると私もアリシャさんも赤ちゃんも参ってしまう。通りかかった4WDの車を無理矢理止めて、ドイツ人の病院まで連れて行ってくれるようたのむ。運転手はインドネシア人で、インドネシアオフロード協会の人だった。この点インドネシア人はこういうときは非常に親切で、仕事中でも気持ちよく了解してくれた。
ドイツのNGO「German Emergency Doctors/ドイツ緊急医師会」はかなりしっかりした施設を持っていた。チャランに最初に入った援助団体だという。「食べ物をくれって言う人はけっこうくるんだよ。その度にあるものはあげているんだけど……」とドクターはいう。アリシャさんにも、お米10kgと赤ちゃん用のミルクをボトルに入れてくれた。アリシャさんは栄養不足で母乳が出ないという。赤ちゃんはもう10ヶ月だと言うが、見たところ5ヶ月ほどの体格だ。赤ちゃんはもらったミルクをおいしそうにごくごくと飲んだ。

もらった粉ミルクをペットボトルで溶いて、すぐに与える。赤ちゃんはおいしそうにごくごくと飲んだ。
アリシャさんの村は、ここから15km離れていると言う。10kgの米袋を担いでまた歩いて帰るのは無理だ。聞いてみるとオフロード協会の人もそっち方面に行くと言う。私もどうしても彼女の行く先を見ずにはいられなくなった。食べ物がないというのは本当だろうか。私はカメラ2台と水しか持っていない。日焼け止めも持っていない。でも、エイッ行ってしまえ! アリシャさんと車に乗り込む。
15kmといえばそんなに遠く聞こえないが、ずたずたに寸断された道に横たわっているヤシの木や家の残骸を避けながら進むのは時間がかかる。この道をアリシャさんは歩いてきたのだ。今日で食べ物を探しにチャランへ出てきたのは、震災以来4度目だという。道を行きつつ、道路脇を歩く人々を見る。
アリシャさんのように、食べ物や衣類を持って歩いている人たち。子ども用の自転車にいっぱいに物を載せているおじさん(唯一津波から残ったのが子ども用の自転車だったのだろう)、家を建て直すのに使うのであろう、鉄くずや木片など、いろいろな物を担いだ人が歩いている。子どもたちも親を手伝って荷車を押したり、引っ張ったりがんばっている。

家を建て直すためなのだろう、さびたトタン板を運ぶ人。まったいらになった荒地が、戦後の日本の焼け野原に重なって見える。

重い荷物を頭に、子どもを脇に抱えたおかあさん。気温は35度をゆうに超えている。
この周辺には本当に何も残っていない。ふと、原爆投下後の広島・長崎もこんな感じだったのではないかなと思った。子どもの頃、恐る恐る見たモノクロ写真を思い出す。あの写真にも配給を遠くからもらってきた人が今みたいに歩いていたっけ。前を走っていたインドネシア軍のジープから兵士が子どもたちにビスケットを投げる。わっと子どもたちが走りよる。これだって戦後の日本、祖母が語っていた風景そのものだ。(1月27日)
text & photos / Kani Sae 01:03
通信033 被災者に平等に配られるべき物資が配られていない現実 |

川にかかっていた橋は地震で落ちたという。アリシャさんの暮らす村はこの川の向こうだ。
「あそこがうちの村」。アリシャさんの指差す先を見ると川の向こうだ。おまけに橋が落ちている。そこを荷物を持った人が胸まで浸かりながら渡っている。深さはそれほどでもなさそうだが、幅は広い。無理に渡ろうとした車が途中で煙を出しながら、スタックしている。アリシャさんは途方に暮れる。10kgの米袋を持ってくれる人もいない。援助物資を運ぶインドネシア軍の装甲車のような物に乗って渡っている人もいるが、物資優先なので何人もは乗せてもらえない。向こうまで行こうかどうしようか迷っていると、オフロード協会の人が、「どうせここまで来たんだから行っておいでよ。帰りはちゃんと送っていってあげるから」と言ってくれた。
装甲車に乗って川を渡る。外国人の私は優先ですぐ乗せてもらえた。アリシャさんはまだ岸で遠慮がちに待っている。兵士に頼んで、アリシャさんと赤ちゃん、そして大事な米袋を私と一緒に乗せてもらった。他の人はこの装甲車がもう一度往復してくるまで、待たなければならない。待ちきれない人たちが川に入り始める。

装甲車に乗って川を渡る。

待ちきれない人は、歩いて川を渡っている。自転車を抱えている人もいる。
川向こうに着いて驚いた。援助物資が山積みになっている。物が届いていないわけではないのだ。ではなぜ、アリシャさんはなぜ食べ物がないのだろう。アリシャさんに「なんでここから食べ物をもらわないの? ここにこんなにあるじゃない」と言うと、言いにくそうに「村長がくれないの」と言う。配給は、援助団体から各村ごとに分けられる。お米は大人1人1ヶ月25kgもらえると言う。そして、村長が各家族に分けるのだ。しかし、アリシャさん曰く、彼女の夫が津波で行方不明になり、村の名簿に彼女と子どもたちの名前がなかったことから、配給がもらえないのだという。

驚いた。川の向こうにも援助物資が山積になっている。でもアリシャさんはこの物資を分けてもらえない。
いくら名前がないとはいえ、村の人口なんて多くて数百人、村長が彼女たちの存在を知らないわけがない。「もし良ければ、私が村長に直接話してあげようか」というと、やめてくれという。外国人に言いつけたと思われれば、あとでもっと嫌がらせをされて、村から追い出されかねないという。「私は自分の食べ物は自分で探すからいい」という。そういわれては無理にというわけにはいかない。日ももうすぐ暮れる。
仕方なく、アリシャさんにさようならを言って装甲車に乗る。解せない気分でオフロード協会の人に今あったことを話すと、その人は「たぶんこれはこういうことだろう」と説明してくれた。インドネシアでは、国民は全員KTPカードというIDカードを持たなければならない。このIDカードがいわば日本で言う、戸籍である。パスポートの給付から税金の支払いまで、すべてこのKTPカードの提示がなければサービスを受けられない。
彼曰く、アリシャさんの夫は恐らくGAM(反政府ゲリラ)の戦闘員で、山にいるか、もしくはいたかであろうと。GAMの戦闘員で山にこもっていたならば、KTPカードは持っていないか、持っていたとしても期限切れかもしれない。そしてその家族も、家長が登録していないのでKTPカードを持っていない可能性もある。実際、夫が津波で行方不明になったかどうかは別として、村長はKTPカードがないことを理由に彼女たちに嫌がらせをしているとしか思えない。インドネシアでは村長は大抵軍と仲がいい。GAMに関係のある人間に配給を拒否することぐらい朝飯前である。
真実は分からない。でも、誰にでも平等に行くはずの援助が平等に行き渡っていないのは事実である。援助機関もこのような微妙な地元の政治関係を考慮して、一人一人に直接手渡す方法を考えるべきではないだろうか。さもなくばせっかく十分に行き渡るはずの援助もだれかの懐を潤すだけになりかねない。
たった24時間の滞在だったが、チャランでは多くの援助の問題点を凝縮して見ることができた。「行っても何もないですよ」とある記者が言ったが、やっぱり来てよかった。何もなさそうに見えても、水面下では多くの問題があるものだ。しつこく突き詰めてみると、いろいろな物事が見えてくる。まぁこんな取材方法は時間に余裕のある(ある意味で暇な?)フリーの記者にしかできないことなのかもしれないが……。(1月27日)
text & photos / Kani Sae 00:02
通信034 後ろ髪を引かれる気持ちで帰途に |
アチェに来てもうすぐ3週間。この間突っ走りに突っ走ってきたから、やっぱり疲れ気味だ。そろそろ帰ろう。
いざ帰るとなるとまた欲が出てきて、「もっとできたのではないか」とか「もっとできることがあるのではないか」と思ったり、他のフォトグラファーと自分を比べて落ち込み気味になってしまったり……複雑な気分。ジェームス・ナッチウェイが同じ時期に来ていたと聞いて、妙なプレッシャーを感じてみたり……(報道写真の神様と比べてどうするっ……苦笑)。
ただ、周りの景色が日常化してきているのも事実。今日も遺体を見かけたけれど、「あ、遺体だ」という程度で特別の感慨もわかなくなっている。現地の人々も普通の生活に戻り始めている。そろそろ潮時かもしれない。
援助バブルはますますアチェのインフラに負担をかけている。私はインドネシア赤十字にずっとただで泊めてもらっているからいいけれど(床に雑魚寝だが)、外国からぽっとやってきたジャーナリストは民家に一泊20USドル出して泊まっている(ホテルはどこも倒壊していて泊まれるところはない)。20USドルと言えば、平均的な労働者の日当7日分だ。一軒に2~3人の外国人を長期で泊めて、食事を出して洗濯してあげれば、その収入は相当なものだろう。
民宿をやれる人たちは、津波の影響をほとんど受けなかった高台地域の人たち。ということは、ほとんど何もなくしていない人たちばかりが儲けている一方、すべてを無くした人たちはまだテントに暮らしている。
外国のNGOも、スタッフの住居とオフィスやクリニックに使っている建物に相当な金額を払っているらしい。普段の相場を知らないから言い値をそのまま払っているのだろう。もちろん、ネゴをしている時間に余裕がなかったり、選ぶ余裕はなかっただろうとも思う。
日本赤十字は、ある人から聞いたところによると、普段の1年分に相当する家賃を月額で払っているらしい。外国人からすればたいしたことない金額でも、正常時の相場の10~20倍だ。一般人の生活に影響が出るのは必至。一般人の食べるナシブングス(ご飯と野菜とちょっとお肉の入ったお弁当)の値段もジャワの5~6倍になっている。今は援助物資をもらっているからいいが、6ヶ月してそれがなくなったとき、すべてを無くした人はどうなるのか。後ろ髪を引かれる気持ちだ。
text & photos / Kani Sae 16:22
通信035 早く、ぐっすり眠りたい |
今、空港にいる。帰るとなると複雑。まだいたいような、帰りたいような。同じインドネシア国内なのだから、また来ようと思えばすぐに戻って来られると思うと少し気が楽になるけれど、すでに軍からの締め付けも強くなってきているし、本当にまた来られるだろうか。
友だちになったアチェの学生たち。まだデンマークのDEMHに入院している腕を切断したおじさんや、脚を切断したデリサちゃん。みんなが別れを惜しんでくれた。「またいつ来る?」と聞かれるとつらい。このままアチェのことを忘れてしまうことがあってはならないから、できる限りの方法でこれからも関わっていきたい。
さぁ家に帰って、私のこの3週間を一から夫に話さなければ……彼は日本語が読めないから、私のこの連載は読んでいない。この3週間、暇さえあればCafeglobeにメールやSMSを送っていて、彼とはほとんどちゃんと話していない。1日では話し足りないだろう。彼のあきれたり、びっくりしたりする顔が目に浮かぶ。
空港は大混雑。ミッションを終えたらしい大勢の外国人たちは、リラックスして解放感に溢れた顔をしている。怪我がひどいためか、メダンの病院に移送される男性がいる。3週間の勤めを終えたというインドネシア人の医者や看護師もいる。
そんな中、私は猛烈な疲労感に襲われ、椅子にきちんと座っていることができない。早く、ぐっすり眠りたい。静かな場所で、気持ちと3週間に経験したことをゆっくり消化したい。
ジョグジャカルタの家についたら、またここに連絡をします。ここに書ききれないでいることも、あらためてCafeglobeで報告したいと思います。
text & photos / Kani Sae 12:29
通信036 帰宅したと思ったら、入院する羽目に…… |
ジョグジャに戻った喜びもつかの間、その翌日早朝から突然の下痢と吐気に見舞われ、病院に行ったところ、「急性胃腸炎」と言われてそのまま入院してしまいました。点滴を10本ほど受けて。無理矢理まだ入院させておこうとする医者と看護婦を振り切ってやっと今退院してきたところです。こちらでは外国人の患者は金ヅルだから、必要以上に入院させたり薬を出そうとするんです。ほんとは、入院も必要なかったと思うんだけど。
ジャーナリスト仲間に話したら、アチェから戻った翌日に病に倒れた友人がすでに2人。私で3人目とか。みんな、ぎりぎりの精神力でやっていたのだろう。でも、アチェで病気にならなくてぎりぎりセーフ。文句は言いつつも、まだここジョグジャのほうがアチェの医療状況よりはましだから。
2日間病院のベッドで、ずっとうつらうつらとアチェの夢を見ていた。目が覚めても自分がどこに居るのか分からないこともあった。「帰ってきたんだっけ」と思い出し、なんだかアチェのことが半分夢だったような気さえしてくる。そして、忘れないうちに書かなきゃと焦りはじめる。平和で安全な場所に戻ってくると、こうも人間の感覚って鈍くなるものかと呆れるくらい、なんだかぼーっとしている。さぁ、しゃきっとして書かなきゃ。まだ書ききれていないことがたくさんある。
【編集部より】
かにさんの、アチェ取材記はいったんこれで終了となります。
また、これまでここには書ききれなかったことなどを記事としてまとめていただき、今月下旬から順次掲載していく予定です。どうぞお楽しみに!
text & photos / Kani Sae 10:51




