スマトラ島沖地震 ライブレポート
今回の津波で最大の被害を受けたインドネシアのアチェ地方。じつはアチェはかねてから独立ゲリラ(GAM)と政府の抗争が激しく、各国からの援助が十分に届くか心配されている地域でもあります。今ここに、以前東ティモールについてレポートしてくれたかにさえさんが、取材に入っています。ネットにアクセスできない期間はSMS(欧州やアジアで採用されている携帯電話のテキスト送信機能)をイギリスに送信、そこから日本へオンタイムで転送するという裏技(!)を駆使して、時々刻々と変わる現地の様子を随時更新でお届けします。
※新しい通信は常に古い通信の上部にアップされますので、さかのぼって読む場合は日付とタイトルの「通信000」の数字を参考に古いものからお読みください。
   
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通信001 バリ島に日本からかかってきた電話


昨年12月26日。バリ島で風邪で寝込んでいた私のところに日本の父から電話がかかってきた。「おーい、生きてるか?」。

風邪だって言ったっけ?とぼーっとした頭で考えつつ「うん。なんとか生きてるよ」。「ひどい被害らしいな、何千人も死んだって?」「???……何? 何のこと?」「地震だよ。あと津波。スマトラだってさ。バリは感じなかったのか?」。

そのあとの会話はあまり覚えていない。ひどい熱があったのだ。自分が病気のときは、世界で何が起こっても目の前のこと、頭が痛いとか吐き気がするとかしか感じる余裕はないんだな……と変な感心をしつつ、「地震……津波か」とぼんやり考えていた。

翌朝、フラフラしつつネットカフェに行きメールを開いてみると「大丈夫?」「Are you OK?」というメールが世界中から届いていた。日本、イギリスはもちろん、ヨーロッパ、アメリカ、南米からも。混乱し、あわててBBCのホームページを開いた。読み進むうちに愕然とした。

この時点では、震源に近いインドネシア北部アチェ州からのリポートはまだ文章のみで、被害の写真はタイやスリランカのものばかりだったが、それだけでも被害の広がりのすさまじさを知った。アチェはどうなっているのだろう?

text & photos / Kani Sae 00:00

通信002 アチェの特殊な事情と、
見てみたいと思った理由


アチェ州はインドネシアの中でも特殊な存在である。インドネシアがオランダから独立して以来、一種の自治を保っていて、1970年代からGAM(The Free Aceh Movement)と呼ばれる独立派ゲリラとインドネシア国軍との間で激しい争いが繰り広げられてきた。1998年にスハルト大統領が退陣し、東ティモールのインドネシアからの独立が認められたのを見て自分たちにも独立の希望があると思ったのか、インドネシア各地で独立運動が活発化する。

特に2002年になってからアチェでの抗争は過激化し、ゲリラと国軍の間に挟まった一般人の死亡が毎日伝えられるようになった。東ティモールの二の舞いでアチェまで失いかねないと思ったインドネシア政府は、ブッシュ大統領の「テロに対する戦い」のスローガンをまとって、東ティモール侵略(1975年)以来最大と言われる軍事作戦を展開、外国人ジャーナリスト、リサーチャーなどのアチェへの入域を禁止した(この間イギリスとオーストラリアの女性リサーチャー2人が1ヶ月国軍に監禁されたり、日本人のカメラマンが強制送還されている)。

東ティモールの取材以来、インドネシア各地の独立運動に興味を持った私は、ロンドンにいた間にもアチェの政治活動家や政治亡命者たちと交流を続けていた。アチェにもいつか行ってみたいと思っていたが、「アチェに関わっていることが当局に知られたら強制送還、再入国不可は免れないよ」という友だちの助言に従って、じっと見守るしかなかったのだ。

だから今回の津波災害で震源地から一番近く、一番被害の大きなアチェが世界のメディアに初めの数日ほとんど出てこないのを見て、「やっぱりアチェだからね」と思った。災害から数日後に、政府は外国メディアがアチェに入ることを許可したが、実際初めてのアチェからの生のレポートがBBCに流れたのは私の知っている限り新年明けてからだ。

text & photos / Kani Sae 01:00

通信003 携帯の電波の届く限り、刻々と変わる
状況と思いをできるだけ早くお伝えします


そもそも、私はなぜインドネシアにいるか。2002年の東ティモールでの取材以来、私はイギリスでウツウツしていた。イギリスの物価の高さは今では有名だが(編集部注:実感では東京よりだいぶ高い by編集長アオキ)、生活費のためにイベントや結婚式の写真を撮る毎日になっていた。もちろんそれはそれで立派な仕事ではあるけれど、「私はそもそもなんでフォトジャーナリストになろうとしたんだっけ?」と問わずにはいられない日々が続いていた。「いっそアジアに住んでしまえば、生活費も安いし、私のやりたいトピックのすぐそばに身を置ける。ティモールにもまた行ける」、そんな思いで去年インドネシアに移ったのだ。

今回の津波災害のひどさを知った私は、熱でボーッとしつつも「行かなきゃ」という思いが先走り焦っていた。でも体は動かず、図らずも大みそかまでじっとベッドで考える時間を得たのだった。落ち着いて考えてみれば、速報性のあるニュースは大手通信社のカメラマンが既に映像を送り始めているし、慌てたところで通信衛星を使ってバンバン映像を送る人たちと張り合っても仕方ない。緊急救助と第一次援助が落ち着くまで待って、それからじっくり取材しても遅くはないと思い直した。

役に立たないのに興味だけで行ってしまっては、ただでさえ緊急を要する救助の邪魔になるし、一人でも多くの人が食べ物や水を必要としているときに私が援助団体の食べ物を消費しては本末転倒。世界のメディアは移り気だから、ある程度状況が落ち着けばアチェはまた忘れられてしまうだろう。でも今回の災害からの再建にはこれから10年はかかると言われている。子どもを亡くした親は何十万人、親を亡くした子どもも何十万人、家をなくした人は何百万人。これからが本当の試練の始まりだろう。それを記録してくことが、私のような立場の人間ができることで、しなくてはいけないことのような気がする。

が、実際の取材のロジスティックはそう簡単ではない。私のようなフリーはまず資金力がない。皮肉なことに今アチェの州都バンダアチェはある種の援助景気になっているらしい。ティモールでもそうだったが、膨大な人数の外国の援助機関やメディアが入ることによって、宿泊施設、車両、運転手、通訳の値段が高騰するのだ。すでに車は普段の10倍になっているらしい。仕方ないことだけれど、私にとっては厳しい。でもインドネシア語はできるので通訳は必要ないし、車は運転できないし、とりあえず自分の足で歩いて、目で見て、自分の耳で理解してみよう……。

あらかじめ決まった取材先のないままの出発は不安でもあるが、現地からの情報は入り乱れていて、実際の状況はちっともつかめない。各地ではGAMと国軍との小競り合いも起きていて、GAMが援助機関のトラックを奪ったという噂も聞く。どこでそれが起きているのか、どの程度の規模なのか、それもよくわからない(編集部注:別の未確認情報では、混乱に乗じて国軍がGAMの掃討に着手しているという噂もある)。それなら、実際に行ってみるのが一番わかりやすいだろう。どうするかはそれから決めるしかない。着いた早々何らかのアクシデントでこの連載も危うくなるかもしれないが、それも承知で編集長のアオキさんにはこの連載を引き受けてもらった。

携帯の電波の届く限り、人々の今の暮らし、刻々とかわる状況と思いをできる限り早くお伝えしたい。もし、読んでくださっている方が感じるところがあればぜひ募金をお願いしたい(編集部注:右枠参照)。これから何年もかかる復興のために。私のレポートを読んでくださった方々に募金をお願いすることぐらいしか、私がこの被害者の方々に直接貢献できることはない。

text & photos / Kani Sae 02:00





かに さえ
フォトジャーナリスト
インドネシアの古都ジョグジャカルタとバリをベースに活動するフォトジャーナリスト。アジアを中心とした開発・人権環境問題が主なフィールド。昨年、長らくイギリスにおいていたベースをインドネシアに移した。東京生まれ。日本向け雑誌のバリ取材・コーディネートなども手がける。
ロンドン反戦デモ 200万人が街に出た日
  Cafeglobeバックナンバー。米英によるイラク攻撃の直前にロンドンで行われたデモをレポート。
Sae Kani Photography
  かにさんのサイト。
かにさんへのメールは こちらから
  saerobinson@yahoo.co.jp









ピースウインズジャパン
  かにさえさんの入っているインドネシア・アチェ州のムラボー近郊で援助活動中。クレジットカード可。
日本赤十字社
  インドネシア赤十字社への支援なども行っている。しかし1月14日現在寄せられているのは19億円弱(新潟の110億円と比較すると少ない!)。郵便振替・銀行振り込み
のみ。
国連WFP協会
  国連世界食糧計画を支援する日本での民間協力の窓口。寄付はローマのWFP本部を通じて活用される。クレジットカード可。
日本ユニセフ協会
  今後は被災した子どもたちの生活再建、孤児の養育者探しなどにとくに注力していくという。クレジットカード可。