スマトラ島沖地震 ライブレポート
今回の津波で最大の被害を受けたインドネシアのアチェ地方。じつはアチェはかねてから独立ゲリラ(GAM)と政府の抗争が激しく、各国からの援助が十分に届くか心配されている地域でもあります。今ここに、以前東ティモールについてレポートしてくれたかにさえさんが、取材に入っています。ネットにアクセスできない期間はSMS(欧州やアジアで採用されている携帯電話のテキスト送信機能)をイギリスに送信、そこから日本へオンタイムで転送するという裏技(!)を駆使して、時々刻々と変わる現地の様子を随時更新でお届けします。
※新しい通信は常に古い通信の上部にアップされますので、さかのぼって読む場合は日付とタイトルの「通信000」の数字を参考に古いものからお読みください。
   
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通信029 とうとうヘリでチャランへ



前日に私のリクエストを聞き間違えた、ヒュイ氏(左)。今回のオペレーションの隊長。翌日にはきっちり約束を守り、私一人のためにチャランにヘリを着陸させてくれた。


(以降、1月27~29日までの記録)
ついにヘリに乗ることができた。前日に「チャラン」と「サバン」を間違えて、申し訳なく思ってくれたらしい(3時間も待たされた挙句乗れなかった)。向こうから走ってきて、「待ってたよ! 君一人のためにチャランに着陸してあげるから、早く乗りなさい」と言ってくれたのだ。大勢の報道陣がダメ元でヘリ待ちをしている横をすり抜け、ちょっといい気分。

チャランには初めから行きたいと思っていた。アチェ州の西海岸で、被害が最もひどい所と言われていた。大型飛行機が着陸できるようなスペースがないため、ヘリと船でしか援助物資を運べない。バンダアチェからの道路は地震で壊されている。何度も赤十字に頼んだが、物資輸送が優先と行かせてもらえなかったのだ。やっと最近赤十字もチャランにキャンプを作ったので、今なら一人で行ってもとりあえず寝る所はあるだろう。

「チャランに行っても何も撮る物ないですよ」と日帰りで行ってきた日本人の記者が言った。人もいないし、何もないですよと。どうしようかなと思ったけど、やっぱり自分の目で見ることにした。

ヘリに乗り込み、安全ベルトをしっかり締める。ヒュイ隊長は私のために一番眺めのいい席を取ってくれる。全開のドアに向かって座ると、ヘリはそのまま飛び立った。

思ったより揺れない。昔、小型セスナ機に乗って思いっきり酔ってしまったことがあるのでちょっと心配していたが、全開のドアから入ってくる風と景色に圧倒されつつ、ものすごく気持ちがいい。


ヘリコプターにのせれる物資量は限られているので、人の数は最小限。多くの報道陣がヘリに乗れるのを待っているのを尻目に乗り込む。

バンダアチェのヘリポート周辺は津波の被害がなかったので、のどかな田園風景が広がっている。アチェは津波さえ来なければ本当に美しい場所だったろう。しかし海に出て西へと旋回すると景色が急変する。あとは写真を見てもらった方が早い。被害のあった地域とそうでない地域の差が歴然としている。緑と茶色のコントラストは凄まじい。


緑の美しいアチェ内陸部。


津波を受けた地域(茶色の部分)とそうでない場所がはっきりと分かれている。

壊滅状態の工場が見える。海岸線ぎりぎりに建っている。あとで聞いたら、日本も出資しているセメント会社だとか。いったい何人の人がここで働いていたのだろう。そして何人が流されて今も行方不明なのだろう。壊滅状態の村々をいくつも見ながら、ヘリはチャランに近づいてきた。(1月27日)


アチェ郊外、ロンガにあるセメント工場「PT Semen Andaras Indonesia」。日本の会社が出資しているという。壊滅状態だ。

text & photos / Kani Sae 00:36

通信030 たった3000人の村に、
何十トンという古着が送られている



どこでも、ヘリが近づくと子どもたちがワーッと集まってくる。物資が届くのを待っているのだ。

「あれは?」。ヘリがチャランに近づくにつれ、何かが海岸に山積みになっているのが見える。衣類の山だ。人々が大きな船から荷物を運び出している。


3000人の村にこの量の衣料援助……。ほとんどがボロボロの汚い中古だ。


どこの団体がなぜこんなにたくさんの古着を送ってきたのかは誰に聞いても分からない。

ヘリが海岸脇の平地に着陸すると、人がわーっと寄って来る。フランス軍からの援助物資を待っていた人たちだ。でも残念ながら、今回の荷物は私一人。フランス軍は私を降ろすとサッサと飛んで行ってしまった。「あなた一人? 物はないの?」とみんなわいわいと言って、「なんだ……」と残念そうに帰っていった。

この中にはフランスのNGO「Action Contre la Faim (Action Against Hunger/飢餓への抵抗活動)」のスタッフもいた。無線も電話も通じない状態で、ただ受け身で物資を待っているという。毎日、熱風の中を30分以上も歩いてヘリが到着するのを見に来るそうだ、「今日こそは何か届くかも……」と。ヘリに乗りたい外国人も、いつ来るとも知れないヘリを待っている。バンダアチェにはヘリの予定を調整する人たちがいたが、ここチャランにはそれすらない。

ここにはインドネシア軍しか駐在していない。そして彼らも木の下でただ日がなお喋りしているだけである。いつ、誰が来るとも知れないヘリを一日待っているなんて……先が思いやられる。「フランス軍の活動をするはずだったのに、何もしてないじゃん!」。またしても何か誤解があったようだ……。

仕方なく、頭からサロン(布)をかぶって歩き出す。とにかく暑い。日差しが肌を突き刺す。とりあえず、あの衣類の山を見に行った。何十トンはあるだろうか、本当に小山のようにある。「この船どこからきたの?」と聞くと、「ジャカルタ」とか「スラバヤ(東ジャワの大都市)」とかみんな適当に答える。とにかくジャワから来たってことか。どこの団体がなぜこんなにたくさんの古着を送ってきたのかは誰に聞いても分からない。とにかく船が着いたから、荷を降ろしているだけだ。津波の後、チャランの人口は元の6000人から、半分の3000人ほどになってしまったという。3000人に何十トンの古着はいかにも多すぎる(それもけっこうぼろぼろの物ばかり)。

インドネシア赤十字のキャンプに向かう。フランス軍がいない以上、赤十字に寝床を求めるしかない。赤十字のキャンプも、避難民キャンプ同様かそれ以上に悲壮感漂っている。ビニールシートの屋根は雨が降ったら大変だろう。おまけにスタッフはもう2週間以上いるというのに、未だにトイレも水浴び場もないのだ。ここもフランスのNGO同様、バンダアチェから切り離されているらしい。クリニックには薬のストックもなく、翌日バンダアチェに帰るという私に、必要なもののリストを持って帰って、送ってくれるように頼んでくれと言う。

ここには国際赤十字のスタッフもいる。彼らのほとんどはインドネシア語の分からない西洋人たちであるが、彼らは衛星回線の携帯電話だって持っている。なんで、協力しないのだろう? こういう組織内の問題には首を突っ込まないようにしているが、またしてもコミュニケーション不足による不合理を見た。(1月27日)

text & photos / Kani Sae 01:21

通信031 アメリカ人による、アメリカ人のための援助?



炎天下、15kmも歩いて食べ物を分けてほしいと訴えにきた女性。食糧は援助団体のテントには山積みになっているのに、飢えている人がいる。

チャランの陸の孤島状態にやきもきしていると、偶然、アメリカ政府を代表する援助組織「USAID」の人たちがアセスメントにやってきた。援助したあとそのお金がどう使われているか調査するチームだという。

ワシントンから来たばかりという調査員の女性は、日系アメリカ人通訳とペアになり、インドネシア赤十字やフランスのNGO「Action Contre la Faim」にインタビューをしに行くという。同行することにした。お金の使い道などのアセスメントをするならさぞかし時間がかかるだろうと思いきや、インドネシア赤十字でわずか15分。あれ? もう終わり? 次にAction Contre la Faimに向かう。

先にお伝えした通り、彼らは自分たちの寝る所もままならないまま毎日供給を待っている状態である。USAIDの話では、このNGOにも結構な額を援助しているという。トイレの設置や井戸の清掃(津波後、井戸のほとんどが海水や泥水に汚染されて使いものにならなくなっている)など衛生問題に取り組んでいると聞いていると調査員の女性は張り切っている。

30分ほど歩いていると、向こうからAction Contre la FaimのTシャツを着た人が歩いてくる。近づいて自己紹介をする。彼が一瞬迷惑そうな顔をしたのを私は見逃さなかったぞ! 日系アメリカ人が、相手の話を聞く前にいきなり、「ところで、もっとお金は必要ない? たとえば、もっとプロジェクトの規模を広げるとか、もっと地元の人を雇うとか。最大限に規模を広げたらいくらかかる?」。フランス人「あ~、うーん……いきなり聞かれてもちょっと……」。アメリカ人「予算はあるんだよ。ただ、地元の人間が今ボランティアで働いているらしいから、この関係が悪くなっても困るんだけどさー……」とアメリカ英語でまくしたてる。

フランス人はたじろぎながら、このドナー(援助を出資している団体のこと)を怒らせないように、でもなんとか会話をかわそうといきなり私に話を振る。「カメラマンでしょ? うちのプロジェクトはそれほどフォトジェニックじゃないからつまらないかもよ。でもとりあえず、誰かに案内させるよ。僕はちょっとミーティングがあるから。じゃ!」と去っていってしまった。代わりの人がやってきてアメリカ人をプロジェクトに案内する。私は適当に周囲の写真を撮りながらついていく。実際見られたのは、トイレ3つと水浴び場2つ。あとは地元の人の掘っていたトイレ。でもそれも、ただの穴で1mくらいの深さしかない。


トイレ用の穴を掘る人たち。しかし、地下水脈などをきちんと読んで掘らないと、伝染病の病原菌が井戸水を介して蔓延する危険性だってある。

茶色の地下水が下に溜まっている。子どもたちが下痢なので、ここで用を足させるとのこと(地元の人曰く)。でも、地下水に接触する可能性のある所に病原菌をまき散らせば、井戸水を介して伝染病が広がる可能性がある。しかしアメリカ人はこういう詳細にはあまり興味がないようだ。今後いかにお金を使うかの方に夢中のようだ。

500mほど歩くと道路が行き止まりになった。そこにたくさんの古着が捨てられていた。さっきの港から持ってきたのだろう。アメリカ人はこれにもちょっと眉を寄せただけで、ノーコメント。自分たちのお金と関係ない所には興味がないのだ。なんせ、ワシントンからわざわざ来たのだから時間の無駄はできない! 今日の午前中に来て午後2時のヘリで帰るのだから!


行き止まりの道に捨てられた古着たち。捨てるほど余った古着を燃料代わりに燃やしている風景も見た。極端な援助の偏り。というより、ただ「かわいそう」だけで行動してしまうと、こういうことになる。ジャワの人々の善意も、配給のコーディネートができていないばかりにこのような結果になった。

私が言いたいのはAction Contre la Faimの活動の悪口ではない。彼らはこれからも長期間アチェに滞在し、じっくりと腰を据えて活動していくだろう。結論を出すのは時期尚早だ。私が疑問を投げかけたいのは、国を代表して何千、何万ドルという援助金を出す側の姿勢だ。「もらった分は必ず期限内に使い切れ」という姿勢、地元の知識もないまま半日程度のアセスメントで何が分かるというのだろうか。小さなNGOはいつもお金に困っている。大型のNGOは普段はお金に困っているけど、このような災害が起きると一度にドッと活動のキャパシティを超えたお金が集まり、有効に使い切れない。でも要らないとは言えないし……数限りない援助の矛盾。

USAIDのチームは来た道を徒歩で戻り始める。私はもう彼らと炎天下の中歩く気はないので、通りかかったおじさんに頼んでバイクに乗せてもらい、一人、町に向かって戻る。もちろん町といっても何も残ってはいなく、更地にテントがいくつもあるだけだ。あちこちで人々が物を燃やしている。プラスチックもナマモノもすべて一緒くただ。空気の汚染も、水の汚染も激しい。咳をしている人、湿疹に覆われている人や子どもを大勢見かける。

町の端に、WFP(世界食料計画)の大きなテントがあった。チャランに物がないなんて嘘だ。テントの中には今後6ヶ月はもつはずという食糧が積み上げられている。その前を通りかかったとき、2人のアメリカ人に呼び止められる。彼らもUSAIDの調査チームだったが、通訳さえ連れていない。彼らは私に赤ちゃんを抱いた女性が何を言っているのか聞いてほしいという。アチェ人の女性が口に物を入れる動作をして、食べ物をくれと言っているらしいと。聞いてみると、お米が欲しいと言う。子どもに食べさせるお米がないそうだ。15km離れた村から歩いてきたと言う。村にはあと2人子どもがいて、食べ物を待っているらしい。それを聞くと、アメリカ人の調査員はまたしてもヒステリックにまくしたて始めた。「このテントにはこんなに食べ物があるのにどうして飢えている人がいるのかしら! 私たちはすごい額を国連にも出しているのよ!」。もう一人の男性は「アメリカの人々の善意がちゃんと届くように(For the kindness of American people)、プログラムオフィサーを置くべきだ!」 。そんなことをここで平然と言いのけるのがアメリカ人のすごいところだ。アメリカ人の善意なんかより、この女性と赤ちゃんはどうするのだ。私たちの会話がわからず、彼女は不安そうに私たちの顔を見ている。(1月27日)

text & photos / Kani Sae 00:54

通信032 赤ちゃんはもらったミルクをごくごくと飲んだ



倉庫に山のように食糧を抱えているWFPでも埒があかず、ドイツのNGO「German Emergency Doctor」をたずねて診てもらう。注射器で水をもらう赤ちゃん。

「私たちは2時のヘリに乗らないといけないから、あなた、アメリカ人の病院にこの人を連れて行ってあげて。きっと彼らが助けてくれるはずよ」「アメリカ人の病院ってどこですか。私、今着いたばかりなのですが……」「私もよくわからないけど、あの白いテントのあたりだと思うわ」と500mほど先を指差す。おいおい、ほんとかい? でもとりあえず、女性をそのままほっとくわけにもいかず、その白いテントまで連れて行くことにする。アメリカ人は「あなたって本当に親切ね!」と大袈裟に感謝して去っていった……。

炎天下の中また歩き、白いテントの前まで来ると確かにアメリカ軍の兵士が数人いる。「ここに病院があるって聞いたのですが……」「病院なんてないよ。確かにドクターはいるけど、軍のドクターだから現地人はみないよ。それに今いないし。ソーリー マーム」と言われる。ずっと赤ちゃんを抱いて歩きっぱなしの彼女、アリシャさんになんて言っていいのか分からず困ってしまう。

すると、通りかかった人がドイツ人のやっているクリニックがあると教えてくれた。どこか聞くと「あっち」と山の方を指差す。「あっちって言われても……」チャランは確かに小さな町だが、この気温の中歩くとなると私もアリシャさんも赤ちゃんも参ってしまう。通りかかった4WDの車を無理矢理止めて、ドイツ人の病院まで連れて行ってくれるようたのむ。運転手はインドネシア人で、インドネシアオフロード協会の人だった。この点インドネシア人はこういうときは非常に親切で、仕事中でも気持ちよく了解してくれた。

ドイツのNGO「German Emergency Doctors/ドイツ緊急医師会」はかなりしっかりした施設を持っていた。チャランに最初に入った援助団体だという。「食べ物をくれって言う人はけっこうくるんだよ。その度にあるものはあげているんだけど……」とドクターはいう。アリシャさんにも、お米10kgと赤ちゃん用のミルクをボトルに入れてくれた。アリシャさんは栄養不足で母乳が出ないという。赤ちゃんはもう10ヶ月だと言うが、見たところ5ヶ月ほどの体格だ。赤ちゃんはもらったミルクをおいしそうにごくごくと飲んだ。


もらった粉ミルクをペットボトルで溶いて、すぐに与える。赤ちゃんはおいしそうにごくごくと飲んだ。

アリシャさんの村は、ここから15km離れていると言う。10kgの米袋を担いでまた歩いて帰るのは無理だ。聞いてみるとオフロード協会の人もそっち方面に行くと言う。私もどうしても彼女の行く先を見ずにはいられなくなった。食べ物がないというのは本当だろうか。私はカメラ2台と水しか持っていない。日焼け止めも持っていない。でも、エイッ行ってしまえ! アリシャさんと車に乗り込む。

15kmといえばそんなに遠く聞こえないが、ずたずたに寸断された道に横たわっているヤシの木や家の残骸を避けながら進むのは時間がかかる。この道をアリシャさんは歩いてきたのだ。今日で食べ物を探しにチャランへ出てきたのは、震災以来4度目だという。道を行きつつ、道路脇を歩く人々を見る。

アリシャさんのように、食べ物や衣類を持って歩いている人たち。子ども用の自転車にいっぱいに物を載せているおじさん(唯一津波から残ったのが子ども用の自転車だったのだろう)、家を建て直すのに使うのであろう、鉄くずや木片など、いろいろな物を担いだ人が歩いている。子どもたちも親を手伝って荷車を押したり、引っ張ったりがんばっている。


家を建て直すためなのだろう、さびたトタン板を運ぶ人。まったいらになった荒地が、戦後の日本の焼け野原に重なって見える。


重い荷物を頭に、子どもを脇に抱えたおかあさん。気温は35度をゆうに超えている。

この周辺には本当に何も残っていない。ふと、原爆投下後の広島・長崎もこんな感じだったのではないかなと思った。子どもの頃、恐る恐る見たモノクロ写真を思い出す。あの写真にも配給を遠くからもらってきた人が今みたいに歩いていたっけ。前を走っていたインドネシア軍のジープから兵士が子どもたちにビスケットを投げる。わっと子どもたちが走りよる。これだって戦後の日本、祖母が語っていた風景そのものだ。(1月27日)

text & photos / Kani Sae 01:03

通信033 被災者に平等に配られるべき物資が配られていない現実



川にかかっていた橋は地震で落ちたという。アリシャさんの暮らす村はこの川の向こうだ。

「あそこがうちの村」。アリシャさんの指差す先を見ると川の向こうだ。おまけに橋が落ちている。そこを荷物を持った人が胸まで浸かりながら渡っている。深さはそれほどでもなさそうだが、幅は広い。無理に渡ろうとした車が途中で煙を出しながら、スタックしている。アリシャさんは途方に暮れる。10kgの米袋を持ってくれる人もいない。援助物資を運ぶインドネシア軍の装甲車のような物に乗って渡っている人もいるが、物資優先なので何人もは乗せてもらえない。向こうまで行こうかどうしようか迷っていると、オフロード協会の人が、「どうせここまで来たんだから行っておいでよ。帰りはちゃんと送っていってあげるから」と言ってくれた。

装甲車に乗って川を渡る。外国人の私は優先ですぐ乗せてもらえた。アリシャさんはまだ岸で遠慮がちに待っている。兵士に頼んで、アリシャさんと赤ちゃん、そして大事な米袋を私と一緒に乗せてもらった。他の人はこの装甲車がもう一度往復してくるまで、待たなければならない。待ちきれない人たちが川に入り始める。


装甲車に乗って川を渡る。


待ちきれない人は、歩いて川を渡っている。自転車を抱えている人もいる。

川向こうに着いて驚いた。援助物資が山積みになっている。物が届いていないわけではないのだ。ではなぜ、アリシャさんはなぜ食べ物がないのだろう。アリシャさんに「なんでここから食べ物をもらわないの? ここにこんなにあるじゃない」と言うと、言いにくそうに「村長がくれないの」と言う。配給は、援助団体から各村ごとに分けられる。お米は大人1人1ヶ月25kgもらえると言う。そして、村長が各家族に分けるのだ。しかし、アリシャさん曰く、彼女の夫が津波で行方不明になり、村の名簿に彼女と子どもたちの名前がなかったことから、配給がもらえないのだという。


驚いた。川の向こうにも援助物資が山積になっている。でもアリシャさんはこの物資を分けてもらえない。

いくら名前がないとはいえ、村の人口なんて多くて数百人、村長が彼女たちの存在を知らないわけがない。「もし良ければ、私が村長に直接話してあげようか」というと、やめてくれという。外国人に言いつけたと思われれば、あとでもっと嫌がらせをされて、村から追い出されかねないという。「私は自分の食べ物は自分で探すからいい」という。そういわれては無理にというわけにはいかない。日ももうすぐ暮れる。

仕方なく、アリシャさんにさようならを言って装甲車に乗る。解せない気分でオフロード協会の人に今あったことを話すと、その人は「たぶんこれはこういうことだろう」と説明してくれた。インドネシアでは、国民は全員KTPカードというIDカードを持たなければならない。このIDカードがいわば日本で言う、戸籍である。パスポートの給付から税金の支払いまで、すべてこのKTPカードの提示がなければサービスを受けられない。

彼曰く、アリシャさんの夫は恐らくGAM(反政府ゲリラ)の戦闘員で、山にいるか、もしくはいたかであろうと。GAMの戦闘員で山にこもっていたならば、KTPカードは持っていないか、持っていたとしても期限切れかもしれない。そしてその家族も、家長が登録していないのでKTPカードを持っていない可能性もある。実際、夫が津波で行方不明になったかどうかは別として、村長はKTPカードがないことを理由に彼女たちに嫌がらせをしているとしか思えない。インドネシアでは村長は大抵軍と仲がいい。GAMに関係のある人間に配給を拒否することぐらい朝飯前である。

真実は分からない。でも、誰にでも平等に行くはずの援助が平等に行き渡っていないのは事実である。援助機関もこのような微妙な地元の政治関係を考慮して、一人一人に直接手渡す方法を考えるべきではないだろうか。さもなくばせっかく十分に行き渡るはずの援助もだれかの懐を潤すだけになりかねない。

たった24時間の滞在だったが、チャランでは多くの援助の問題点を凝縮して見ることができた。「行っても何もないですよ」とある記者が言ったが、やっぱり来てよかった。何もなさそうに見えても、水面下では多くの問題があるものだ。しつこく突き詰めてみると、いろいろな物事が見えてくる。まぁこんな取材方法は時間に余裕のある(ある意味で暇な?)フリーの記者にしかできないことなのかもしれないが……。(1月27日)

text & photos / Kani Sae 00:02





かに さえ
フォトジャーナリスト
インドネシアの古都ジョグジャカルタとバリをベースに活動するフォトジャーナリスト。アジアを中心とした開発・人権環境問題が主なフィールド。昨年、長らくイギリスにおいていたベースをインドネシアに移した。東京生まれ。日本向け雑誌のバリ取材・コーディネートなども手がける。
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Sae Kani Photography
  かにさんのサイト。
かにさんへのメールは こちらから
  saerobinson@yahoo.co.jp









ピースウインズジャパン
  かにさえさんの入っているインドネシア・アチェ州のムラボー近郊で援助活動中。クレジットカード可。
日本赤十字社
  インドネシア赤十字社への支援なども行っている。しかし1月14日現在寄せられているのは19億円弱(新潟の110億円と比較すると少ない!)。郵便振替・銀行振り込み
のみ。
国連WFP協会
  国連世界食糧計画を支援する日本での民間協力の窓口。寄付はローマのWFP本部を通じて活用される。クレジットカード可。
日本ユニセフ協会
  今後は被災した子どもたちの生活再建、孤児の養育者探しなどにとくに注力していくという。クレジットカード可。